十字屋ホールというのは、欧米によくある、一種の会員制サロンのような趣があった。ビルのペントハウスで、120人も入ればいっぱいになる小さなホールで、銀座十字屋はそこから音楽と文化を長らく発信し続けてきた。マダムの中村千恵子(現・銀座十字屋会長)が、独自のブッキングをしてきたので、無名のアーティストが来演するかと思えば、ぎょっとするような大物が出演した。出演者と客の距離が近く、独特の臨場感が生まれたし、出演する側でも、観客との間にある種“商売を超えた”親近感を感じられた空間であったと思う。
今回の王子ホールで行われた「天啓の邂逅~奇跡のトライアングル」コンサートは、かつて十字屋ホールに出演した演奏家の中で中村が最もお気に入りだったメンバーを集め、ただ十字屋ホールの閉鎖に伴い実現が難しかった夢を、正夢に変えたコンサートになった。ヴァイオリンの前橋汀子、ヴィオラの今井信子、ハープの篠﨑史子という、各楽器において傑出した日本屈指の演奏家たちの競演とは、中村のみならず、音楽ファンの夢であり、早くからソールドアウトした。内容は、前評判にたがわず、各自のソロ、各楽器のデュオ、そしてトリオの演奏と、この三人ができる限りの演奏フォーマットを披露し、会場全体を大いに沸かせていた。レパートリーは、どれも親しみやすいものばかりで、銀座十字屋の150周年を讃える祝祭ムードの演出に一役も二役も買っていた。たとえば、これだけの大御所たちが、アンコールのなかで、普段は絶対やらないような、「枯葉~愛の讃歌~川の流れのように」などを演奏したときは、さすがに腰を抜かした。ここまでファミリアな演出が実現したのは、演奏者がみな人生の荒波を潜ってきた成功者だし、恐らく十字屋ホールで培われた絆とか、中村を始め出演者たちが同じ時代を生きてきた者同士であるという要素とも、けっして無関係ではない。コンサートは、さながら母が揺らすゆりかごにいるような安心感と温かさに満ちていた。一方で、このコンサートの為に、本邦屈指の作曲家・池辺晋一郎が書き下ろした「やすらぎの朝へ」では、三人はさすが今も頂点に座る貫禄と技術を見せつけた。実際、表題とは裏腹の厳しい楽曲でもあり、短期間で良く仕上げたなというのが正直な感想。だが初演であっても、三人がこの曲が持つ威厳と美しさを余すことなく表現したのが、結果としてコンサートの緩急をつけることになり、心が揺さぶられるコンサートへ繋がったのだ。もう二度とないだろうなと思いながら、その場に居合わせた幸運を嚙み締めた。(本WEB編集長)