あの天才レオナルド・ダヴィンチが、晩年に苦闘したのが「水」の表現だった。ただの一つも同じ情景はない。常に流れ、動き、静謐であるかと思えば、怒涛の如く荒ぶる。人の精緻な描写のためならば、当時はタブーであった人体解剖まで辞さなかったという天才が、何とかこの水という厄介な存在を二次元の空間の中にその全てを封じ込めようと腐心した絵を、時を経て我々はいま「鑑賞」することができる。mayuの6年ぶり2枚目のアルバム「aqua」は、同じ水をテーマに据えた、ハープによる音の調べの綴れ織りが収められている。何もダヴィンチを比較対象に使おうというのではない。mayuの芸術アプローチを紐解く例解に適切だと思うからだ。このアルバムへの接し方は、「鑑賞」というよりはむしろ「体験」という言葉が近いと思う。
平面における最大限の写実に努めたダヴィンチの絵を観る際は、鑑賞側で水のうねりを頭の中でイメージされ、常人ではとても真似できない圧倒的な模写に感嘆し、ダヴィンチの絵に気持ちを寄せてカタルシスを得る。一方でmayuは、絵筆の代わりにハープを持ち、背景に水のせせらぎや流れの音を配し、そこにハープの調べが紡ぐゆらぎを同化させ、三次元の空間を意識した音空間へ聴く者を誘う。心地よい音環境に包まれる状態は、まさに鑑賞するというよりは、体験そのものだ。それは絵を観て、描写に驚嘆する・・というのではなく、音によってデトックスされた解放感に似た体感を覚えるからだ。これをヒーリング音楽と一括りにできないのは、静かで優美な曲を選んで、ゆったりしたテンポで演奏したもの=ヒーリング音楽と称しているレベルではなく、むしろヒーリングを引き出すために音楽を利し、ハープのそのものの生音やそれがたとえハープの存在が希釈されたとしても優先させている選び抜いた音の調和が、他とは一線を画しているからだ。そこには音楽上のジャンルを敢えて押し付けることのない、心へ浸透する音の言霊が即興で流れてくる。mayuは、雨田光示、ヨセフ・モルナール、摩数意英子という大御所たちからハープを学んだハープマスターである。そこから敢えてクラシック音楽の枠を超えて、信念でいまの音楽を創造してきた。この作品で、どうやら音楽家としての高みにも達しつつあるのではないだろうか。
水を巡るダヴィンチの絵と、mayuのアルバム。アートフォームは違えども、共通していることは、人と人、人と自然、そこに必要不可欠なものとして水は介在し、命を繋げ、魂を共鳴させる絆として「水=aqua」を捉え、芸術が生み出しうる人の心の浄化にまで意識を配っていることだろう。こういう作品は、CDの棚に忍ばせておくのではく、ぜひ常に再生機の傍に置いて、生活の中に取り込むことをお薦めしたい。
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