年始めに、ある統計が目を引きました。ローリングストーン誌によれば、いわゆるオワコンとされるCDの売り上げが、アメリカでは上昇に転じたというのです。また、アナログレコードの売り上げも同様でした。デジタルやインターネットの発展により、いまやサブスク(=サブスクリプション)全盛です。一定の料金を払えば、聴き放題。昔からすれば夢のようなサービスです。コロナ禍であれば、余計に他の追従を許さぬシステムなはずです。ところがCDやレコードの売り上げが前年比でも増えている。無論、世界がCDの時代へ逆戻りするとも思えませんが、こうした背景が生まれるのは、我々がひとつの事実に気付いてしまったからかもしれません。それは、どんなに大量のセレクションがあろうと、それらを聴くための時間は有限であるということです。多くのチョイスからひとつを選ぶ作業は、正直面倒です。昔なら、先導してくれる友人や専門家がいて、少しずつ自分の領域を広げることができました。しかし、いまの我々が置かれた状況は、図書館に放り込まれて、「さあ、好きなだけ本読んでくれ」と云われているようなものです。であるならば、お気に入りの詩集片手にカフェラテ飲んでいたほうが気が楽です。感性に合う個性的な音楽を選んで、限られた時間の中で楽しむ。選択肢が多いこと自体が贅沢なのではなく、自分の波長に合った最良のものを、気軽にいつでも取り出せる環境のほうが贅沢であるということなのかもしれませんね。
ドビュッシーは、CD時代からクラシックの売れっ子です。それはひとえに、メディア露出の圧倒的多さにあるのでしょう。「月の光」「アラベスク第一番」「亜麻色の髪の乙女」など、TV-CMや映画の挿入曲に起用される例は枚挙に暇がありません。なぜ、こうも我々はドビュッシーに惹かれるのでしょうか。ご意見は多々あるかと思いますが、ドビュッシー自身が遺した言葉にヒントがあるような気がします。「音楽は、言葉が途切れた後に始まる」。つまり、言葉だけでは言い尽くせない静謐で感情の揺れ動く瞬間に、それを覆いつくすようなメロディが流れてくる。ドビュッシーは、こうした極めて内省的なときに、音楽が流れてくるというのです。それを共有する我々は、目の前の景色を観てBGMにするのではなく、むしろ目を閉じて静かに心へ拡がる情景を追うでしょう。それは、実に映像的です。音楽によって見せられる風景ではなく、各自が追い求める場面が浮かぶのです。我々がドビュッシーに惹かれるのは、彼の音楽が「自分と向き合う音楽」だからです。抑揚をつけて、聴き手に爪痕を残してやろうというものではなく、シンプルだが浸透圧の高いメロディが心にすっと入ってくる。そして一度入ると、それはセピア色の叙景を心の中で映し続ける。CMなどで印象を深くユーザーに刻みたいスポンサーが、なぜドビュッシーを選ぶのかは、とても理解できますね。
ハープと親和性がある理由も、やはりハープが内省的な楽器だからでしょう。見栄えの華麗な楽器ですが、弾く方は大変です。弦をつま弾く、ペダルを使う、数歩先を予見しながら準備するなど、高い集中力とイメージ再現力を要求されます。ドビュッシーの世界観に重なる部分が多い。そうした曲の持つ精神性と演奏者の深い曲理解+技術が結びついたとき、演奏は実に芸術性の高いものになる。
今回は、「ハープ・リサイタル~その多彩な響きと音楽 / 吉野直子」と「塔の中の王妃 / 篠崎和子」の2つのアルバムを紹介致します。それぞれ2曲ほどドビュッシーを弾いていますが、本来はピアノ曲なれどハープで聴くほうが俄然いいとおもわせてくるような名演で、CDで購入して手元に置き、いつまでも聴き続けたいアルバムです。