アイルランドの聖パトリック・デーの頃になると、東京千代田区の内幸町ホール文化祭の一環として行われる「アイリッシュハープの響き」コンサートは、自分の中では新緑の季節の到来と共に、今や欠かせない風物詩になりつつある。菊地恵子が中心になって、毎年様々な趣向でアイルランド文化の風を運んできてくれるのだが、今年はより一層意義深い催しとなった。
今回は、特にテーマとして据えたわけでもないと思うが、「継承」という一本筋の通ったコンセプトがあった。アイリッシュハープの語り部として、聴衆にアイルランドの歴史と文化を伝播してきた菊地が、今度は次代の担い手たちをステージへ招き、共演という形で伝承を始めたのだ。名古屋の金城学院中学校・高等学校ハープアンサンブル部。1975年創設された伝統ある部活動で、中高併せて59名が在籍する。菊地が同校でハープを指導したのが縁で、今回のジョイントが実現した。秀逸なのは、参加した団体ももちろん演奏者も指向ベクトルが一致し、伝統の理想的な継承を具体化したことだ。後援したアイルランド大使館としては、聖パトリック・デーの祝祭ムードに、若き文化の担い手を増やすことができ、中心となった菊地も自らのハープイズムを後進に伝えられ、金城学院としても部活動のさらなる向上や生徒たちへの社会活動の経験値を上げることができ、演奏ハープの提供をした銀座十字屋も力を入れつつあるノンペダル・ハープの、しかもアンサンブルでの使用パターンの啓蒙サンプルを手に入れた。無論、観客も菊地のアイルランドハープの歴史レクチャーと含蓄に富む演奏を堪能しながら、思いもかけず女子中高生たちの清廉なハープのアンサンブルに癒された。これだけ四方が丸く収まる設えは、そうざらにあるものではないだろう。
菊地のソロ、金城学院の連奏が続く中、圧巻だったのはラストからアンコールのくだりだ。「ダニー・ボーイ」(ロンドンデリーの歌)、「サリー・ガーデン」というアイルランド民謡の大名跡の切ない調べが、正しく統制されたアンサンブルで聴くと、こんなにも胸に響くものかと落涙しそうになったところへ、アンコールに菊地御大を迎え、「庭の千草」の演奏。もう、たまりません。世代や立場を超え、音楽でその場がひとつになるという場面は、鉄板の感動になる。さらに印象的だったポイントを3つ。第一に、菊地のレクチャーによるアイリッシュハープの歴史で目から鱗が落ちたこと。ターロック・オカロランの時代でさえ、既にアイリッシュハープは衰退していたが、19世紀ではほぼ一世紀に渡り忘れられた楽器だったということ。やはり時代時代で文化を巡る状況は変わる。大切なのは、その音楽・楽器を愛する継承者の存在がいかに重要かということだ。今回の菊地は、それをまさに身をもって説いたことになる。第二に、アンサンブルの素晴らしさ。たかが部活動と侮ってはいけない。この部員たちのステージ・マナー、演奏経験、日頃の修練、そしてバックアップする学校側の意識の高さと行き届いた指導は、全て今回の演奏で如実に顕れた。付け焼刃で何とかなるものではない。可憐で、緊張感があり、ひたむきな音。ましてや本番一発の演奏は、ごまかしが効かない。日々の練習の積み重ねと、音楽への理解と、集団行動の規律などを演じ手たちが根本的に理解していなければ、音楽でひとの心は簡単には動かせない。恐らく菊地も、そうした原石たちを発見し、ステージへ誘ったのではないか。最後に、楽器の底力だ。ステージでは、サルヴィのMIAとクリスハープがずらりと並んだのだが、今後アンサンブルをレバーハープで楽しむことに、大いに光明が見えたのだ。MIAは、中堅機種で入門にも最適なハープ。別の言い方をすればスタンダード機だ。バランスよく、メーカーとしても機能平均値を上げて作っている。一方、それがゆえに上位機種のように二割増しで音が広がったり、響きの艶が増したりという余禄はさほどない。弾いたひとのそのままが出る。それが菊地のような大御所がソロで弾いても、アンサンブルで使われても、内幸町ホールで十分な音場と流れを築いていた。また、クリスハープのレインボーカラー全機種登場というのも、ビジュアル的に注目であった。小型ハープでも、こうしてアンサンブルで奏でると立派なプログラムになり、他のレバーハープや楽器と絡めれば、もっと楽しい合奏や音楽交流への期待がさらに高まる。このように、「継承」のあとに来る可能性がいろいろと芽吹いていたことも、大きな収穫。来年への期待に、ハードルがもう一段を上がったコンサートだった。 (本WEB編集長)